恩の起点(ここだけは完全ノンフィクション)
~あの電話が、命の灯をつないだ~
22歳。
社会の片隅で、誰にも頼らず、ひとりで「探偵」を名乗った。
探偵業法なんてまだ影も形もなかった時代。
資格も免許も要らない。やろうと思えば、誰でも名乗れた。
だけど、それは「仕事になる」こととは、まるで別の話だった。
事務所なんてない。金もない。
借りたのは、国道16号沿いの音はうるさく空気は悪くしかも1階で国道からは丸見えの四畳半一間の古いアパート。
かつて漫画家の卵たちが集った“トキワ荘”のような、今にも壊れそうなボロ物件だった。
しかも契約書には堂々と「営業目的使用禁止」の文字。
完全に違反だった。でも、そんなことを気にしていたら、始まらなかった。
名刺をつくり、チラシを印刷し、駅前や団地に2万枚以上ばらまいた。
配っても配っても、電話は鳴らない。
唯一鳴るのは営業電話。
「ホームページ作りませんか?」「集客コンサルやりませんか?」
こっちが営業したいくらいだと、電話を切る手が震えた。
家賃は4か月以上は滞納。管理会社からの電話では怒鳴られた「早く出てってください!」と。
ポストには封筒(督促状)が溜まり、電気とガスは止められた。
カップ麺すら買えず、コンビニの前で財布の小銭を数えるような日々。
狭い部屋で、丸まって寝る自分。
調査道具どころか、布団の中で握っていたのは、焦燥と孤独だけだった。
あの頃は、空腹よりも「誰にも必要とされていない」感覚のほうが、ずっと堪えた。
「30歳までに、何も変わらなければ――もう、終わらせよう」
そう思った。“終わらせる”という言葉の意味は、自分の中では明確だった。
だけど27歳のある日、
静まり返ったアパートの室内に、一本の電話が鳴った。
「君に頼みたい調査がある。時間はかかるが、本気でやってほしい」
その声は穏やかで、しかし確かに芯があった。
名乗った相手は、大手アミューズメントグループの会長だった。
耳を疑った。ふざけてるのかと思った。
けれど、本物だった。
その依頼は長期にわたる真剣な調査だった。
会長は、本気だった。だから、僕も本気で応えた。
そして、気づけば状況が少しずつ動き始めていた。
紹介が紹介を呼び、次第に信頼が積み上がっていった。
いつのまにか、
家の明かりはちゃんと灯るようになり、
机の上には「誰かの人生を守る」書類が並ぶようになった。
──あの会長との出会いがなければ、僕はいま、ここにいない。
物理的にも、精神的にも。
浮気、詐欺、家族問題、借金、孤独――
泥にまみれた依頼の中に、必ず“人間の温度”がある。
それを拾い上げる仕事が、探偵なんだと気づいた。
──救われた命が、また誰かを救っている。
その連鎖の起点に、あの人がいる。
いま、僕はこうして、
静かな夜にビールを片手に、小説を書いている。
人を助けることは、
あのとき闇の中で震えていた自分自身を赦すことでもあり、
神への恩返しのようなものかもしれない。
生きててよかった。
心から、そう思える夜が、ようやく来た。
※当時の軌道に乗ってきたイメージイラスト