沈黙の報告書(探偵との夜の会話録)
~沈黙を越えて、心がふれた瞬間~
「夫が浮気していると思うんです」
彼女は目を合わせぬまま、そう言った。
その声には張りがなく、まるで、何度も心の中で繰り返してきた台詞のようだった。
僕は、いつものように淡々と聞き取りを行い、調査を受任した。
夫の職業、帰宅時間、スマホの様子――
すべては、よくある案件に見えた。
ただ、彼女にはどこか、違う空気があった。
それは「怒り」よりも「諦め」に近い、静かな沈黙だった。
調査は、順調だった。
夫は、ほぼ確実に浮気をしていた。
ドラレコの助手席、ホテルの出入り、女性のSNS。
報告書には、すべてをまとめた。証拠としては申し分ない内容だった。
だが、提出の前夜。僕は迷っていた。
この報告書を渡せば、彼女は“真実”を手に入れる。
でも――それは本当に、彼女の“救い”になるのか。
翌日。報告書を受け取った彼女は、数分間沈黙したあと、静かに口を開いた。
「ありがとうございます。これで……終われます」
泣くわけでも、怒るわけでもなく。
ただ一枚ずつ、写真を見つめるその姿に、胸が締めつけられた。
「…今夜、ちょっとだけドライブに付き合ってもらえませんか」
不意の誘いだった。
深夜、湾岸線をゆっくりと走った。
助手席の彼女は、まるで別人のように饒舌だった。
「この景色、学生の頃によく通ったんです。海が見える場所に、母と行くのが好きで…」
亡き母の話。
自分が我慢していた気持ち。
夫への想い。
彼女は、詰まっていた言葉を吐き出すように話し続けた。
僕は、それをただ静かに聞いた。探偵は語るよりも、“聞く”職業だから。
信号待ちの車内で、彼女がふいに笑った。
「…なんでだろう。こんなに話せたの、久しぶりです」
「聞くのが仕事なので」
「でも、今日のは、仕事じゃないでしょ?」
そう言って、彼女はこちらを見た。
はじめて、目が合った瞬間だった。
ネオンに照らされたその瞳は、寂しさの奥に、確かな決意を湛えていた。
信号が青に変わる直前、彼女がふと身を乗り出す。
「ありがとう。あなたに、会えてよかった」
そう囁いたあと、そっと――僕の頬に唇を寄せた。
それは激情ではなく、感謝でもなく。
誰かを、もう一度信じてみたくなる。
そんな希望のようなキスだった。
僕がブレーキを踏む足は、ほんの少しだけ震えていた。
彼女は、それに気づかなかった。
数日後、彼女から連絡が来た。
「報告書、夫には見せませんでした。離婚も、まだ考えてません」
「それでいいんですか?」
「…うん。少しずつ、決めていこうと思います」
そのメッセージの最後には、こう添えられていた。
「“真実”より、あの日の“会話”が、私には救いでした」

※探偵とのドライブは、ときに何かの気づきや癒しになるのかもしれない。